なくなった普通


個人の時代と言われてます。

ダイバーシティとも言われています。

なので、時代は移り変わって、ふつうって言う概念が通用しなくなりました。

ふつうって、多分、マスコミュニケーションにおける社会の役割で、ある一定の平均した概念です。
んで、社会性って我慢を強います。

他人の為に我慢しますよね?

その我慢やめましょうよ!ってなったのが今の社会だと思います。

分かったとは言いますが、多分、頭で分かって感覚的に分かっている人が少ないのでこのブログで書きます。

我慢しない社会


世界にひとつだけの花のように、個人と言いますか、個人の尊厳の問題にもなると思うんですが、今までは社会があって、個人がありました。

と言うことは社会の犠牲になって、個人が我慢をしていたのです。

これが逆転の発想で、我慢しなくていい、個人の時代になったとき、ふつうって言う概念は消滅しています。

なので、個人の尊厳と言いますか、普通ではなく、それぞれの時代なのです。

レズやゲイと言った性的マイノリティーとか、そういった事象が存在しているということは認めてあげましょうよ!って言う感覚で、矯正する必要がないワケです。矯正と言う言葉自体、差別に当たってしまいます。

生きたいように生きるということが原則です。

勝手にやる社会


いろんなところで問題になっているのは、こういった問題を理解しながら受け容れられない人々の存在です。

いろんな法律上の問題から、この考えは支持され、認められています。

どちらかと言うと、この法律的な解釈の方が重要なのです。

政治とか経済なんかがありますが、政治や経済って生きていくためのツールで、さまざまな問題の解決はやはり法律的手続きに基づいて行われますので、この法律的解釈に勝るものがないワケです。

なので、それぞれの人間的な問題は認められる社会になり、それによって差別されてはならない社会になってます。

そのことをよく分からないマスコミはいちいち意見などしますが、本来、それすら人権侵害に当たります。

そういうことをイマイチよく理解していなかったりします。

なんでも許されるワケではない


我慢しなくてよくなったからと言って、なんでも許されるワケではなく、当然、働いたり、生活したりと言った人間関係の際は、必要に応じて合わせたりといった必要はあると思います。

会社で働く場合も、無理に我慢はする必要はありませんが、当然、やっていけないとなると環境を変える必要性はあります。

生活上でも合わない人がいたりと言った場合は、差別は受けませんが、環境を変えるか、合わせる必要は出てきます。

強制したり、我慢したりする必要はありませんが、適宜、修正する必要はあるワケで、それは社会が変わっても対人間なんで変わらないと思います。

あとは一人で生きるか? だと思います。

昔は差別をされ、ヘタをすりゃ矯正されたり、辱めを受けた事例でも、今はこうして法律で認められるようになり、人権ってすばらしいですね? って話です。

ただ、こうして認られるってことは反対の側でも認められるワケで、別に仲良くする必要もなかったりします。

就職とかもとらなくてもいいワケです。

ただ、この理由が原因でとらないってことは言えませんが、とる必要はないワケです。

なので、法律上で認められるとことと今後どうやって生きていくかは違う問題で、それによって差別はされませんが、相変わらず、合う人は少なかったり、マイノリティーが多数派にはなったりしないワケです。

また、多数派だから正しいでもないワケです。