坂口安吾

社会はクソと言いつづける学者


宮台真司という社会学者がいて、社会がクソでクズだらけという発言をして話題になりました。



この学者はけっこう前からクソ発言をしていて、そういうクソ発言が周りをクソにしていることに気がつかなかったりしています。

社会を批判する場合、クソにクソと言ってはマズいということに気がつかなければいけません。

バカにバカと言えばマズいようにです。

本日はそのことについて少し考察をくわえてまいりたいと思います。

バカにバカというのは社会学上OKなのか?


こういうクソ社会や社会に対して提言を行なう学者たちも、言わば怒ってしまう場合と一緒で、読者や社会にかなり厳しめに同一視を行ないます。

それはそれでけっこうなのですが、怒られた方は何ひとつ言葉が入っていかない状態であるのでやめた方がいいと思う次第です。

逆に言えば、社会がクソであるほど生きやすいと考えた方が非常に問題をポジティブにとらえられますし、それがマズい場合は考えを改める人も出てくることか?と思います。

人のことを考えなかったり、享楽的になったり、損得感情で動くことは人間として仕方のないことであったりします。

それをクソというのであれば、それを期待しない生き方を模索するべきなんだと思うのです。

真面目社会はある意味、生きづらい


社会がクソでクズだらけと言う場合、私であれば逆に生きやすくなった実感があります。

たとえばなのですが、やらなければいけないことやいろんな制約があったりします。

それに縛られてがんじがらめで生きるよりは、社会がクソでクズだらけであれば、ある意味、守る必要がないワケなのです。

そうするとかなり厳しめな毒親に育てられた人なんかは、けっこう生きやすくなります。

たとえば部屋の片づけができなくても、できない人の方が多ければ罪悪感を感じる必要がなく、やらなればいいという判断ができます。

また不倫や浮気が多くクズだらけであれば、それはそれでやりたい放題な世の中と解釈することもできるワケなのです。

それは人それぞれの解釈の問題であるし、社会がクソでクズだらけであればあるほど可能な解釈の仕方であると思っています。

最終的にマズいと気がつくようにできている


そして、終局的にはそれがマズいやヤバいと言われる時がくるので、少なくともその時まではやりたい放題やれるワケであったりします。

今の時代はどちらかというと太宰治や坂口安吾の時代に似ていて、震災や不景気がくるとこういった悲観論が時代を覆いはじめるのだと思います。

そして、それは集団ヒステリー的に戦争へ導いたりしますし、やはり不景気や貧困がこのような享楽的な感情を生むものだと解釈しています。

逆に言えば、人間なんてそんなに変わってなくて、たまたま社会の情勢に応じて好景気であれば品格が出るだけで、不景気や貧しくなればたちまちにしてクズになる程度なのです。多分…。

社会学者であればそのことに気がついた方がいいと思いました。

坂口安吾も堕落論をあらわしましたし、白痴もあらわしました。

堕落論 (280円文庫)
坂口安吾
角川春樹事務所
2011-04-15


なんか似ている感じがするのです。

社会情勢や国民としてのマインドやかけているメガネの形についても…(笑)