ナニワのマルクス 青木雄二との出会い
もともと学校も行ってなかったのでなんか人と合わず、
働く意味も分からなかった私は小説などを書いて小説家になる的な人生を歩んでおりましたが、
その当時、
- なんか漠然と社会がおかしい
という気持ちを持っていた記憶があります。
1999年辺りです。確か…。
国鉄の長期債務とか山一証券の破綻とかあった気がします。
お金の帳尻が合わないと思ってました。
まぁ、日本は経済大国だから大丈夫だってノリだったんだと思いますが、
当時からやってる政策がめちゃくちゃな気がしていて、
確かに働いている人が豊かになれる気がしてませんでした。
そんなときに出会ったのが青木雄二の『ナニワ金融道』です。
『ナニワ金融道』自体は金融の物語として素直に面白かったのですが、
この作者の青木雄二が共産党主義者でマルクス主義者だったという点に大変興味が湧き、
青木雄二関連の著作を全部集めて読んだ記憶があります。
デカルトの観念論とマルクスの唯物論
一番の主張は、そして青木雄二自体何回も言っていたことは、
『ある』と『思う』は違う
という話です。
という話です。
それを哲学の観念論と唯物論に例えて説明してました。
私もその答えが知りたくて、大学も哲学科へ入りました。
『我思う、故に我在り』
デカルトの『方法序説』の代表的な言葉ですが、
『私が思うから私はいるのだ』
ではなく、
『私はいるから私は思うのだ』
だと青木雄二は主張してました。
この世界観自体は、世界の解釈としてまだ議論の余地はあると思います。
脳みそがあるから思うし、思わないと世界はないような気もしています。
でも、多分、青木雄二の主張は唯物論的な立場であって、
- 物や事実があるということはそういうことだ
という立場で、
- 物や事実があるのに、それをどう解釈するか?
以前の問題だという主張だと思います。
思うこと(観念論)が優位の日本社会
先の吉本興業岡本社長の会見が、その端緒のような気がしていて、
岡本社長の思いや解釈の方が優先的であって、
- 事実に対して、
- その事実があったか?
- なかったか?
云々よりも
- その事実はこういう理由で、
- ああいう理由での方がまるで重要な感じ
であるということが会見が長引いた理由だと思いました。
そういう事実の認定さえもままならず、
- 事実に対してどう思っているか?
- どういう理由でこういう事実なのか?
という思考方法が日本中に蔓延しているのだと思います。
事実の認定、在ったか? なかったか?
事実の解釈、思うか? どう思うのか?
この二つの相反する考えが青木雄二の唯物論と観念論の主張であり、
- 前者が科学的で、
- 後者が非科学的で、
- 前者が論理的で、
- 後者が感情的な主張
であると思います。
日本的村八分社会の弊害
観念論と唯物論に関しては、哲学的にはもう少し議論がありますが、
青木雄二が当時から主張したかったことが、
その社会との違和感が…、
青木雄二自身も当時からかなり怒ってましたが、私もようやく分かってきました。
日本はそういう意味でムラ的な、
昨日の吉本興業岡本社長の会見では
- さんまさんがこう言ってたとか、
- 松本さんがこう言ってた
というような表現の細部に至るまで、
その発言の論理的正当性よりも
だれか有名な人が言ってくれている
という方を優先する考えが、非常に危険であると思っています。
そして、それは宮迫さんや亮さんの会見のときもそうですが、
会見という席上で泣いて感情に訴えかける方法は多分、
日本特有の問題であり、
海外であれば学生でも女性でも使わない手だと思います。
もちろん、感情に訴えかける方法はディベートでも有効な手段ですが、
それはテクニカルの問題であり、
いい大人が使う手ではありません。
弱者を味方にするこういった手法が当たり前になってきた点が、
日本の問題だと思います。
そして、これをスルーする文化自体も問題だと思います。
国がダメになるときは様々な問題が積み重なってダメになるので、
こういう一つ一つの問題が無意識に承認されて、
最後は論理的な考え方さえ伝わらなくなって、
日本を出なければならない事態にならないといいと思いますが…。
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