ろくでなしのパイオニア


太宰治は『人間失格』で有名なのですが、太宰治のおもしろさはその作品群に通底したろくでなし加減です。


『人間失格』についてはあたかも暗いような、深刻なイメージがつきまとうのですが、実際、『人間失格』を読んでみると、そんなに暗くなくて、むしろあまりにも自分がなさ過ぎて、かなり軽薄で自分を見失ってしまうさまが描かれています。

幼少期から道化を演じる術を覚えた太宰は、どちらかというと会う人びとや目の前の人びとに合わせてこっけいにふるまうピエロのような人生でした。


んで、それがけっこう行き当たりばったりで、男や女によってコロコロ変わったり、それでだんだんとつじつまが取れなくなってきて、苦しさから薬物に手を出したり、薬物にのめり込んでしまったり、それで全てがダメになるパターンだったりします。

そんなことしたら世間が許さないだろうという有名な一節も、世間というのは、君じゃないかという一節にて一蹴してしまうぐらい、懲りないヤツと言いますか?言い訳と論理の天才のような気もするのです。

「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

このあとに『グッド・バイ』を書いて、その後入水自殺をしてしまうのですが、それも行き当たりばったりのような感じもあり、結局、この人はノリと勢いで生きて、最後、病気になったタイミングで入水自殺したもののような気がします。



薬物に明け暮れる人生


太宰の薬物中毒は有名で、作品の中でも薬物を手に入れるお金欲しさに原稿料の前借りをお願いし、土下座した場面さえ描写されています。

最初の『逆行』で芥川賞にノミネートされた際も、川端康成の人格を否定するような発言に激昂し、川端康成へ当てた手紙に「刺す」としたためたことは有名です。


もちろん、川端康成も太宰の薬物依存を心配しており、その懸念から芥川賞を見送った旨、後ほど表現してます。

ですが、太宰にしてみればどうしても欲しい芥川賞だったし、その選考落選理由が作品に対してではなく、作者の人格に帰せられたものであったため、刺すという表現をとるぐらいに激昂したのだと思います。

多分、この点が薬物依存症の問題点で、実際、太宰は結婚後、薬物依存を心配した井伏鱒二より薬物依存の治療をすすめられ、病院に入院した経緯があります。

んで、この太宰の薬物依存も、薬物依存の人らしい性格として、精神分析の世界では、太宰は境界性人格障害で、ある意味、お道化とは演技であって、自分を偽ってでも他人へ奉仕する人格障害者だったと言われております。

滅私奉公の太宰治とオレオレな三島由紀夫


太宰と反対側の三島由紀夫との違いはこちらで述べました。


分かりやすい例ですが、三島由紀夫はいい事はいい、悪い事は悪いと言える人だったのに対して、太宰治はいい事も悪い事も両者の言い分を聞いて、最後にエヘラエヘラと笑う感じの軽薄なヤツなのです。

その辺を含めて、いい人と見るのか?軽薄な人と見るのか?で評価はまっこうから分かれると思います。

事実、私も青春時代に読んだ際はこういうものなのか?と思いましたが、ある程度年を取り、責任のある仕事を経験したりすると、エヘラエヘラでは回らないのです。

そりゃ、薬物に手を出すわいな。

太宰にしてみれば真実なんてどうでもよく、いい事も悪い事もどうでもよく、ただ目の前を円滑に進めることが得意だったので、太宰の講演は人気みたいでしたし、当然、女性からもモテました。

ですが、多分、モテたのはこの軽薄さ加減で、どうしようもないぐらいの無責任さと無秩序なところです。

その割には走れメロスのように正義とかには熱くこだわったり、ちゃんとした理念とか貫きたい思いなんかも垣間見られるのですが、やはり場をお道化るくせは抜けなくて、真面目になったり、親身になったりするのが苦手なタイプみたいでした。

田舎特有のえふりこき


太宰治は青森の名家の生まれなのですが、『津軽』という作品が有名で、田舎特有の過剰なおもてなし加減が困ったように描かれている箇所が、太宰の人格形成に影響を与えたものと思われます。


太宰が津軽へ帰った際、近所の親戚なんかが一斉に集まって太宰を取り囲み、料理なんかも目一杯広げられ、熱烈な歓迎を受けたのですが、太宰が箸をつけたり、箸をつけなかったりするたんびにリアクションし、それはおいしくないのか?それは食べないのか?といったあまりにも過保護と言いますか、人との距離が近すぎる人間関係の問題なんだと思います。

こういう近すぎる人間関係は最近は毒親なんかと共に有名なんですが、でもその一番の問題点は、意識して気づくのは気づくのですが、逆に気づいたとしてもそれを求めてしまうという点だったりします。

なので、太宰治も『津軽』を書いたので、『津軽』のような過剰な近い感じの人間関係は困るということを理解してましたが、実際は太宰自身もそのことを求めていて、そういう人間関係になってしまうということです。

虐待を受けた子どもが大人になって虐待をしたり、虐待をするような人を好きになるのに似ています。

なので、いい事はいい、悪い事は悪いとはっきり言って気まずくなる関係性よりは、いい事も悪い事も両者の言い分を含めてエヘラエヘラした方がすべて丸く収まるし、誰も傷つかないというある種の田舎の家族と田舎の精神世界だったりします。

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三島由紀夫が都会派でいい事はいい、悪い事は悪いと言ってコンプレックスを克服していったのとは対照的に、太宰治はいい事と悪い事の両者の言い分を聞いてエヘラエヘラしていたので、コンプレックスの克服へ至らなかった点が二人の決定的な違いなのだと思います。

永遠のアダルトチルドレンと言いますか、今で言うアダルトチルドレンのパイオニアなのだと思います。

以上、自分を演じて薬物に溺れた元祖アダルトチルドレン 太宰治の話でした。