1.課題設定が大きすぎる


差別をよくないと主張する人たちがいて、それってけっこう分かりきったことなのになかなか進まないのは、自分の実力以上に大きなことを主張しているからです。

きれいごとの話にも通用しますが、差別はよくないことやきれいごとの話って、少し勉強をすれば誰にでもよく分かる話で、それが実現できないのはけっこう大きな主張をしすぎるからです。


差別はよくないのでなくしましょうよって言っても、差別自体昔からあることなので誰も取りあってはくれません。

こう言った大きな主張って漠然としていて具体策に欠けるので、実現できなかったとしても責任が問われることがないからです。

逆に言えば、そういうきれいごとは言えば褒められるし、実現できなくても責任を問われないので、すごく気持ちいいことができる楽園の世界なのです。

なので、頭の中がお花畑のような人たちってよくやったりするんですが、肝心な具体策がないので、それを望んでいる人たちは無視し始めます。

なんか様子がおかしい。

またいつもの感じか?ってヤツです。

2.具体性がまったくない


たとえばなんですが、障碍者に差別があって、障害者っていう言葉がイメージ的によくなくて障碍者って言葉に直したとしても、それって表向き前進したかのように見えますが、単なる言葉遊びで何一つ変わっていなかったりします。

それよりだったら障碍者が差別されるのは障碍者に対する無理解が多いので、理解してもらうようにイベントを開催したり、障碍者の人たちとコミュニケーションがとれる環境を整える為に動く人の方が、本来的には実力者だったりします。

ただ優しくしたり、手をかけてあげたりするのも正直、自己満足的なところがあって、要は自分の承認願望とかやってあげた感を求めるぐらいならそういう活動には参加しないで欲しいと思うところすらあります。

実際、そういう思いって、じゃあ、障碍者にどういった人生を歩んで欲しいんですか?って話になってくるので、その人のことを本当に心配して思わないと実現は難しい話です。

家族や友人なんかに障碍者がいて、私もそれに関わっていて、利害関係を共にする人たちであればそれなりの実行力や成果が期待できます。

ですが、まるきり関係がなかったり、単に職場でとか、関わったぐらいの程度であれば、そんなに大それたことは実現できなかったりします。

別に障碍者に限らず、ゲイとかマイノリティーの差別をなくすっていう主張は切実なもので、当事者でしか分からない困難さがあります。

3.反対派を差別し始める


よくあることが、こういった差別はよくないと主張する人たちが実はそんなに差別に寛容ではなくて、反対派の意見を論破してみたり、妥協案すらなく自分たちの方が正しいと主張し始めたりする点です。

今だったらネトウヨやフェミニストもそうなってますが、本来は弱い立場やこうした方がいいと言う立場で集まった志の高い人たちが、あまりにも実現されなかったり、不遇な立場に甘じたりしていると、自分たちは正しいのにという思いだけが強くなり、結果、反対派を反人道的に論破する結果となっております。

肝心なことはみんな人間のやってることであって、自分がやっていることがたとえどんなに正しかったとしても反対派の人を反人道的に扱うようでは、差別とかも一生なくならない話で、そのこと自体が一つの教訓となっている事実の話だったりします。