大きく二回にわたる学生運動


1960年と1968年-1970年に学生運動という大学生が政治的な運動で暴動を起こす運動がありました。

1回目の1960年は日米安保同盟に反対した学生たちが抗議運動を行ない、社会問題となりました。

2回目の1968年-1970年ではベトナム戦争反対やそれにともなう日米安保同盟の反対などが抗議のメインとなっております。

なぜ、大学生という将来有望な若者がこのような抗議運動に走ったのか?

三島由紀夫との関連性を含め、考察してまいりたいと思います。

マルクス主義と革命


その頃の大学生の間ではマルクス主義が流行っていて、反戦や世界平和の目的で勉強されてました。

マルクス主義を都合よく解釈すると反戦や世界平和になりがちなのですが、一方で社会主義や共産主義など国家の経済制度や自由を脅かす問題も含んでいるのです。

ですが、その当時の大学生たちは日米安保条約に関してもアメリカの言いなりになって日本は隷属してしまう危機感を持ち合わせていました。

そのことに抗議した学生は日米安保条約に反対して、抗議活動をとることになります。

この際に亡くなった樺美智子さんという人は神格化され、のちの1968年年-1970年の学生運動の際もシンボルとして利用されたりします。


ベトナム戦争反対 べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)


日米安保条約への抗議活動から学生運動が始まり、ベトナム戦争に突入した辺りからベトナム戦争反対の学生運動が展開されることになります。

この時代の特徴的なところは天下の東大生が東大の安田講堂を占拠する事態にまで発展したことです。

東大の安田講堂が占拠された際に演説したのが三島由紀夫で、三島由紀夫と東大全共闘の論争はかなり有名な論争であったりしています。

そして、三島由紀夫もそうなのですが、かなり難しいことを言っていますが、その理由はマルクス主義なんかの理屈は分かっているのですが、理屈通りに行動ができないジレンマのような物があるので難しい表現になるのだと思います。

実際この学生運動の際の書物や日記を読むと、日米安保条約反対のために血を流したり、ベトナム戦争反対や世界平和のために血を流している矛盾に気づく若者の姿が観察されます。


多くの大学生はそのことによりひるんでしまったり、罪悪感にかられてしまったり、革命に挫折するといった心の矛盾を抱えている様子がこれらの書物を読むとよく理解できます。

つまり、三島由紀夫も行動学入門という本を書いているのですが、頭で理解したことと行動に矛盾が生じることを書いてます。


ようはきれいごとなのか、行動が追いつかないのでためらいが出るのか?そこは定かではないのですが、可能な限り論理化・言語化する必要性を東大全共闘を前にしても語っています。

三島由紀夫はその一年半後、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自衛隊の決起を促し、自決してしまいますが、当時、日米安保条約やベトナム戦争への反戦から日本を憂慮する人たちがかなりの一定数でいて、アメリカの言いなりになることへの憂慮が三島由紀夫の行動へ至ったと理解しております。

事実、今はアメリカの航空機をたくさん買ったり、イージス艦なんかも大騒ぎで反対したりしています。

しかも今はヨボヨボのおじいちゃんが…。

ですが、これって三島由紀夫や東大全共闘が予期していた未来であったり、こういう懸念があったので行動していたのがよく分かるのです。

そして、三島由紀夫自体も述べてますが、革命みたいに社会を変えたりすることはかなり難しいということです。

これはマルクス主義の一連の革命運動にもつながりますが、きれいごとを実現する際、多くの反対者が出て、実現が困難になることをあらわしています。

んで、そのことに対して暴力的になることや血が流れることもありますし、それにためらいや罪悪感が生じるのは、そのきれいごとの実現さえもよく理解していない迷いがあるという証拠なのです。

こういった考えが一連の学生運動に共通していて、1960年や1968年-1970年に繰り広げられました。

今の世界ではアメリカの黒人差別より過激な内容で、実際、あさま山荘事件では国際指名手配もされたりしました。


今では考えられないですが、将来有望なエリートが日本の将来を真面目に考え、しかも権力へ歯向かい抗議運動を起こして東大の安田講堂を占拠するまでに至ったのが東大全共闘の学生運動でした。

その際にシンボル的な演説を行なったのが三島由紀夫で、三島由紀夫は逆に、東大生に対して非常にいい印象を抱いていて、彼らのことを信じると結んでいます。

それぐらい日本の高度成長期にかなり水を差す運動であることは確かで、でもかなり熱い運動であったことは確かです。

以上、エリートも暴動に手を染めた三島由紀夫と東大全共闘の話でした。