800px-Toyotomi_hideyoshi

信長様に認められたくて数々の城を攻略したら城攻めが得意になった秀吉


豊臣秀吉と言えば努力家で、農民から一国一城の主、大名にまでのぼりつめた話ばかりが喧伝されますが、よくよく観察すれば信長もひれ伏すほどのキレ者であったということがご理解いただけると思います。

秀吉は城攻めが得意なのは有名な話で、

  • 三木城の兵糧攻め


  • 備中高松城の水攻め

が代表的なものにあたると思います。

ですが、多分、秀吉は最初っから城攻めが得意だったのではなく、

  • 信長様に認められたい思い

から城攻めが得意になったと思われる考察です。

それぐらい人に対する忠誠心も大切ですし、組織に対する忠誠心も大切であると思う昨今です。

新型コロナで個人がてんでバラバラな現代こそ、組織の大切さを見直す時期であるようにも思います。

  • 組織は人を育てます。

そして、

  • それは個人の能力も伸ばす

からです。

秀吉の有名な城攻めはこのような背景から生れたものであると理解しております。

喰うに困った経験が喰うに困らせる環境を作る 三木城の兵糧攻め


城と言えば城に攻め入り、敵をなぎ倒す発想なのですが、それを根本からくつがえしたのが兵糧攻めです。

つまり、城の周りを大軍で囲み、米の補給網をたって、兵糧をなくすことにより餓死させる戦い方が兵糧攻めなのです。

  • 戦わずして勝つ

やり方です。

  • 腹が減っては戦はできぬ

の言葉にある通り、

その腹の足しになる兵糧をなくせば戦ができなくなると考えたのが秀吉でした。

まさに

  • 農民出の発想

と言えます。

これにより、餓死者が多数出、士気も低下し、別所長治はあえなく開城した話は有名です。

いわゆる、

  • 三木の干殺し(みきのひごろし)

と呼ばれております。

ただこれには20ヶ月の時間を必要としたため、このあやまちを反省し、次の

  • 鳥取城の兵糧攻め

では若狭から商船団を派遣して国内の兵糧を高値で購入する方法をとりました。

これについては鳥取城も思わず売ってしまったぐらいの高値であったとされています。

つまり、戦の前から米不足にしてお米を高くて買えない状態に操作した話は有名です。

それもそのはず、そのお米は秀吉が高値で購入してしまったからです。

まさに農民ならではの嫌がらせです。

これにより、

  • 三木城は20ヶ月経過しましたが、
  • 鳥取城は4ヶ月後には兵糧攻めが完了

しております。

いわゆる、

  • 鳥取の渇え殺し

です。

まさに時短要請でした。

なので、食品が必要なとき食品を買い占める手法は、多分、秀吉的発想なのです。

それは本質的に人が困るからです。

それを高値で買い占めるということは買いたい人は高く買うしかないし、買えない人は餓死してしまう環境を作ってしまいます。

食うに困った農民だからこそできた発想であると思いました。

司馬遼太郎短篇全集 第4巻
司馬 遼太郎
文藝春秋
2005-07-13


城の周りを水で囲めば毛利軍も指をくわえて眺めるしかない 備中高松城水攻め


兵糧攻めは兵糧の補給網をたつ戦い方なのですが、備中高松城の水攻めは城の周りを水で囲む戦い方です。

この城主の清水宗治が毛利に忠誠心が熱く、毛利の援軍をさえぎるために周りを水で囲みます。

その際も

  • 現地の農民を雇用し、
  • 現地の農民に堤防を作らせた

のです。

もちろん土木工事にたけた奉行がいて陣頭を指揮しますが、

  • 働くのは現地の農民で
  • 現地の農民に多額の報酬を与え、
  • 現地の農民に作らせた

話は有名です。

それにより人手不足も解消し、その場で人手を採用し、その場で工事がおこなわれる荒業となりました。

そのとおり12日間で工事が完了し、備中高松城は水に浮かんだ状態となったのです。

これについては援軍の毛利軍もなんともできませんでしたし、指をくわえて眺めるしかできない状態におかれました。

おまけに水に浮かんでいるので兵糧の補給網もなく、ただただ陸の孤島と化してしまったのです。

戦わないで勝つ方法がお金もお米も使わない事実に気がついた秀吉


秀吉はこのようにどちらかと言えば戦うよりも戦わないで勝つ方法を考えた武将の一人でした。

それは戦うことによって人も減ってしまいますし、兵糧やお金もなくなってしまうからなのです。

  • 人が移動すれば日数がかかります。
  • 日数分の兵糧がいりますし、
  • 人手分の手当が必要になる

からです。

それよりはできれば勝つ方法を決めてしまってから

  • じっくりコトコト待つ

方法を採用し、多くは戦う前から勝つことが決まっている方法で戦いにのぞんでいます。

それが

  • 城の周りを大軍で囲む兵糧攻めでありますし、
  • 米を高値で買い占める方法でありますし、
  • 城を水の中に埋めてしまう方法

でもあります。

それらは多分、真面目に戦えば進軍や退却を繰り返し長い年月がかかるものであったと想像できます。

ですが、この農民出の秀吉ならではの奇策により多くは短期間のうちに攻められ、攻略されました。

それにより信長の寵愛を受けた話は有名です。

光秀も嫉妬するぐらいの活躍ぶりだったからです。

しかし、皮肉にも備中高松城の水攻めの最中に信長は本能寺の変で帰らぬ人となりました。

この本能寺に泊まった理由も、秀吉からの備中高松城の総仕上げ要請のために向かっていたと言われております。

つまり、

  • 秀吉は自分一人で終わらせることができる城攻めを
  • 最後の最後で信長様にやってもらいたかった

のです。

ところが本能寺の変で光秀が天下をとり、そのことを知った秀吉は背後で毛利と和睦を進め、7日で山崎へ向かった話は中国の大返しと呼ばれております。

  • 城主、清水宗治の切腹も、
  • 毛利との和睦も、
  • 備中高松城のお片付けも、

水面下で繰り広げられ、その足で山崎の合戦に及んだのですから、その凄まじさは破壊級だったのです。