
論理的に正しい意見よりもある人の意見の方が尊重される?!
論理的に正しい意見で相手のことを論破したりする風潮があったりします。
- 論理がわかる人とまるでわからない人の決定的差 ...
- https://toyokeizai.net/articles/-/602428
ですが、ブラック企業においては、
論理的に正しい意見がそもそも通用しなかったり、
ある人の意見の方が尊重されたりする機会が多い
のが実状です。
そこで本日は、この、
- 論理的に正しい意見よりも、
- ある人の意見の方が尊重される理由
について考察をくわえてまいります。
論理的に正しい意見は論理がわからない人たちの間では無力 むしろ誰が言ったか?の方が重要
- 論理的に正しい意見が論破できる
のは、
- 論理的に合っているか?
- 間違っているか?
- ジャッジできる
環境です。
地方や田舎のブラック企業では、
- そもそもが論理的ではなく、
- どちらかと言えば感情的である
ので、
- 論理的に正しいよりも、
- 誰が言ったか?
の方が非常に重要だからです。
それはそもそも、
- 論理的に正しさ
をジャッジできない
ので、
- 誰か?
- 正しそうな人
に
ところにあります。
- 正しさや、
- 間違いでさえも
- 一任している
ところにあります。
業務上の指摘や、
さまざまな問題点においても、
- 論理的に検討される
と言うよりは、
- 誰か力のある人の指摘や、
- 影響力のある人の意見
の方が尊重されます。
- 社長の奥さんであるとか、
- 社長のご子息の声
であれば、
- それは論理的にどうか?
は別にして、
- 何においても、
- 何より先に、
改善して反映しなければ、
その結果が答えになります。
- とるに足らない意見や、
- とるに足らない問題点
であっても、
- 人により、
- その改善方法や、
- 結果が異なってくる
からです。
それは同じことを指摘されても、
問題点として提起されても、
- 論理的な正しさうんぬんより、
- 誰が発信したのか?
の方が吟味されるからです。
萎縮して発言しなくなれば発言そのもの意見そのものが尊くなる理由
勉強をあまりしないご子息が、
- 「勉強する」
と言うとき、
毎日塾に通うご子息が
- 「勉強する」
と言うよりも価値を持ちます。
それはあまりそのようなことを、
- 言わない
からです。
- あまり言わない人が、
- たまに言う
とき価値をともない
尊重されるのだと思いました。
ブラック企業においては、
会議の席でも、
- みな萎縮して挙手さえはばかられる
のに、
- 新入社員は積極的に挙手して褒められる
ことに似ています。
ですが、安心してください。
- あなた方が萎縮させた
からです。
その萎縮が極限に達すると、
- 論理的な正しさよりも、
- ただ声を発する
ことにのみ価値を持ちはじめる
ので、
- 意見そのものさえが
- 尊い
といった悲しい結果を招いてしまうことになります。
論理的に正しい意見で物事を決められる
のは
です。
- 非常に高度な民主主義
です。
それは、みんながみんな、
- 論理的に正しい
のと、
- 論理的に間違っている
ことを認め、
- 論理的に正しい
方を支持するからです。
ですが、ひとたび考えることをやめ、
論理的な正しささえジャッジできない環境に置かれると、
- 誰か?
- 正しそうな、
- ある人の意見
のみが尊重される環境に置かれます。
それは
- 社長であったり、
- 社長の奥さんであったり、
- 社長のご子息であったり、
といった家父長制の地縁血縁関係による、
- 正しさ
だからです。
その場合は素直に、
- 論理的な正しさ
にこだわるよりも、
- 家父長制的な正しさ?
に依拠する対応が求められます。
それはおそらく、
- その人がそう言った
のだから、
- その通りにするしかない
ワケだからです。
そこに
- 正しさ
や、
- 間違い
はありません。
それは
- その人が答え
になるからです。
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