2022-04-16 佐久間信盛

戦国時代の織田信長に追放(リストラ)された武将 佐久間信盛について


戦国時代の織田信長は

  • 合理主義や能力主義

で、

能力のある者を取り立てたことで有名です。

その織田信長に長らく仕えながらも、

晩年には追放(リストラ)されてしまった

佐久間信盛を理解することにより、

  • どういった行動や結果がリストラにつながるのか?

本日は考察をくわえてまいりたいと思います。

与えられら指示を達成できないとき、言い訳をする人材


佐久間信盛は織田信長の父(織田信秀)の代から仕えた武将で、

織田信長が家督を継いだころよりサポートしていました。

  • 桶狭間の戦いや、
  • 松永久秀の調略、
  • その他、外交上の問題

にも積極的にたずさわり成果を上げていった武将でした。

ところが、

朝倉義景の一乗谷城の戦いの直前より雲行きがあやしくなってまいりまして、

信長の疑念を買ってしまいます。

裏切りによる浅井・朝倉の戦いは、

刀根坂の戦いのとき、

逃げる朝倉義景を追撃し、仕とめる指示が

信長配下の家臣に周知徹底されておりました。

ですが、実際は、

  • 追撃できずに、逃げられ、
  • しとめることができませんでした。

それに激怒した信長は家臣団に対して激しく怒りましたが、

佐久間信盛が以下のように発言したため、

大きな反感を買ってしまうことになります。


 「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」

現代語訳

 「そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい」


つまり、佐久間信盛は信長が怒ったことに対して、

  • 謝罪の言葉や反省の弁ではなく、
  • あろうことか?
  • 言い訳をした

からです。

ブラック企業にたとえると、

  • 社長が激怒しているのに、
  • 部下が言い訳をする構図

そのものです。

その一件以降、

信長の佐久間信盛に対する信任が揺らいでいった話は有名です。



仕事を任されたとき、何もしない人材


織田信長を悩ませた相手として、石山本願寺が有名です。

彼らは信長を困らせるためだけに存在し、

嫌がらせをしつづけるために根気強く戦っていた坊主たちでした。

その総大将に任命された佐久間信盛は与力を与えられながらも、

5年間も何もせず、

いずれ信長のご威光で屈するだろう

との読みから時間だけが経過してゆきました。

この石山本願寺との戦いにおける

佐久間信盛の対応が追放(リストラ)の引き金となりました。

織田信長は激怒して、折檻状というものをしたためております。

これはブラック企業にたとえれば、

  • 解雇予告通知書

のような内容で、

まだ昔々の戦国時代なのに、

信長はしっかりと手続きを踏んで、

佐久間信盛を追放(リストラ)に追い込んでいたのは素直に驚きでした。

まだ法律もない戦国時代なのに…です。

戦国時代の解雇予告通知書 佐久間信盛折檻状について


以下に佐久間信盛折檻状を観察してゆきます。

本文


一、父子五ヶ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、我
も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。

一、此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ、幾年も送り候へば、彼の相手、長袖の事に候間、行く
は、信長威光を以て、退くべく候条、さて、遠慮を加へ候か。但し、武者道の儀は、各別たるべし。か様の折節、勝ちまけを分別せしめ、一戦を遂ぐれば、信長のため、且つは父子のため、諸卒苦労をも遁れ、誠に本意たるべきに、一篇に存じ詰むる事、分別もなく、未練疑ひなき事。

一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。

一、柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて、此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付くる事。

一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、由断、曲事の事。

現代語訳

一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。

一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。

一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。

一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。

一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。

佐久間信盛が

  • 何もしない

ことに対して信長の不信が述べられたあと、

  • 明智光秀や羽柴秀吉、柴田勝秀などはしっかり働いてくれている

と述べられています。

確かにおっしゃるとおりなのですが、

織田信秀の代から仕え、

信長とは家督相続の頃よりサポートしてきた佐久間信盛としては、

驚きだったと思います。

おまけに自分のほかに頑張っている武将を褒め称え、

並びあげることにより、

ますますの焦燥感をあおります。

佐久間信盛はこの折檻状により、

織田家を追放(リストラ)され、

高野山に隠居した話は有名です。

あとから入社してきた人材が秀で過ぎると社歴の長い人材でもリストラされてしまう


佐久間信盛の一連の顛末は、

  • はじめに言い訳をしたことにはじまり、
  • 最後は何もしなかった

こと尽きます。

そして、このはじめの言い訳で不信感を買ってしまい、

最後の何もしないことにより、

引き金となってしまいました。

不信感が不信感を呼び、

最後には増殖され、

  • やっぱりな?!

とあきれられたか?

のようです。

信長は合理主義で能力主義なのですが、

  • 佐久間信盛自体がまるきり能力がなかったのか?

と言えば、桶狭間の戦いも松永久秀の調略も、

  • 戦もこなし、
  • 外交や調略もこなす、
  • 大変バランスのとれた器用な武将

でした。

ですが、いつの間にか?

他の武将たちが秀ではじめ、

また、

佐久間信盛が反感を買ってしまうことにより、

取り残され、

格差が開いてしまったように思います。

何事もはじめが肝心ではないですが、

ホント、ちょっとしたきっかけが人の不信感をまねいてしまいます。

もしかしたら、佐久間信盛も、

あの刀根坂の戦いで、

言い訳をしなければ

違った人生を歩んでいたのかも知れません。

また石山本願寺の戦いで、

少しは攻めたり、

調略をおこなっていれば、

こういった問題にはならなかったと思います。

ブラック企業の元従業員として言えることは、

  • 常日頃の言い訳は積もり積もって不信感をまねいてしまいます。

そして、それは何もしないときや、

次にくる怒りポイントで思い起こされ、

引き金を引いてしまいます。

それは人間関係が信頼関係でできている以上、

しかたがないことだからです。

言い訳は一回であれば、言い訳でごまかせたりします。

ですが、それが2回も3回もつづいたり、

さらなる不信の種がめばえるとき、

  • その言い訳で得た不信感が
  • 何もしないことへの確信に切り替わるとき、
  • 解雇につながってしまう

のだと思います。

ブラック企業へお勤めの方々はお気をつけください。

織田信長の佐久間信盛に対する折檻状には

  • 解雇する側の心情を読み解くことができる

からなのです。

それは意外にも、

  • 情けは人のためならずの戦国時代からの贈り物

で、素直な発見でした。