学校という全体主義
私が学校に馴染めなかった理由はどうも全体主義や軍隊主義のような風潮があるからだと思います。
私の世代でこう思っているということは、もっと自由な環境で育った今の子どもたちはもっともっと窮屈であるような気がしております。
これ自体が全体主義を代表する感じなのですが、こんな学校であればただちに行くのを止めた方がいいように思います。
先の黒川検事長のかけ麻雀と一緒で、本来、正義を目指していたり、教育にかかわる人は中立でなければいけなかったりします。
中立でなければいけない人
なんで中立でなければいけないか?と言うと、そこに善派や悪派がいて、どちらか有利な方に組みしていたりすると、それがある種の答えになってしまうからです。
なので、永世中立国のスイスもありますし、どちらにも組みしないということは極めて難しいことなのです。
ところが日本においてはどいつも権力の犬のようで、権力にシッポをふるのがあたかもマナーであるかの感じすらします。
黒川検事長のかけ麻雀もそうですが、法の番人のような人がそれをやってはいけませんし、新聞社の人と仲良くしても本来はあまりよくなかったりします。
こういう人間関係のような付き合いが日本では横行しているので、いつまで経っても不正はなくなりませんし、むしろ悪化しているように思うワケなのです。
本来、正義もそうですし、善いことや悪いことをジャッジする人は崇高で尊敬されなければいけません。
なので、かけ麻雀はやってはダメですし、単なる麻雀ではダメだったのか?むしろ疑問すら浮かんできます。
これって坊主がクラブでおねえちゃんの肩に手を回して鼻の下をのばしているのとまったく一緒で、坊主のような煩悩の遮断を説く人間が、欲に溺れては説得力がまったくないというのに似ているのです。
正義を目指す人間が、かなりダークなかけ麻雀で小銭を稼ぐのであれば、その正義自体が疑われるということです。
どうしてもかけたいのであれば、ご自身の退職金をかけて麻雀してみればいいのではないのでしょうか?!
国民総出のかなりエキサイティングな視聴率が期待できると思いますよ!
空気を読んで忖度する人びと
日本は思考停止の人が多いせいか?権力にシッポをふることが礼儀であり、マナーと考える人が多くなっているような気がします。
であれば、多分、それは高度な勉強なんか必要なくて、そのように至って単純シンプルに教えればいいだけの話です。
学校もそうなのですが、なんで中立であるかと言うと、やはり学問や知識は純粋に学問や知識であって、権力や人間関係からは何の影響も受けないというのが基本だからです。
日本の怖い点は、けっこう高度なことを勉強している割には、権力者が白だと言うと自分は黒だと思っていても白と発言する忖度の精神にあったりします。
んで、本来の学問はこの白や黒を判断する礎の知識だったりします。
なので、この白や黒の判断はあなたが決めるもので、あなたがその知識から自由に決めてくださいとするのが本来の学問的な知識の役割です。
それで白だと言う人と黒だと言う人が分かれ、多数決を取るのが本来の民主主義の役割であったりします。
ところが、最近の政治でも学校でも社会でも、誰か偉い権力者が白だと言えばみんな白と言ってみたり、黒だと言えばみんな黒だと言ってみたりする社会は、とてもまともな社会とは言えなかったりします。
そういうのが学校であるならば、多分勉強はしなくていいですし、なんか適当なコミニティーでまったりとお茶でも飲んでいればいいだけの話です。
バナナがおやつに含まれて困るのは、おやつ代の予算が500円と決められているからであり、うまい棒やビッグカツやよっちゃんイカなんかを購入すれば、あっという間になくなっておやつ代を圧迫することになるからです。
であれば、バナナはおやつ扱いではなくご飯扱いにしてもらった方が、みんなにとやかく言われず、うまい棒やビッグカツやよっちゃんイカに全ツッパで500円使っても文句を言われません。
このように、小学校の頃の遠足のおやつ代の予算500円に対する鋭い質問と経済的センスが、その後のお金の使い方に大きな影響を与えることになるのです。
以上、学校も黒川検事長も権力の犬であれば、先生、バナナもおやつに含まれますか?って話でした。
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