内閣09181

『Nori』と『Ikioi』と『Ba No Kuuki』


新型コロナウィルスの関係で世界中のニュースを見始めていますし、世界中のツイッターでの人びとの反応を観察して思う点は、やはり日本には日本独自のマインドがあり、むしろこのマインドによって事態をより深刻にしているのではないか?と思う点です。

Murahachibu(村八分)的管理が成功しているのでは?と思った話はこちらです。


私も学校に行ってないので、どちらかと言うとマイノリティの立場なので感じていた事なのかもしれませんが、『ノリ』と『勢い』と『場の空気』というものを非常に重要視する国民性だと思うのです。

この『Nori』と『Ikioi』と『Ba No Kuuki』もマニュアル的に言語化できるものではなく、どちらかというと体感的に習得するものだったりします。

Murahachibu(村八分)同様の土着の心理と言いますか、土着の精神論のような気がします。

Nori


気持ちが上がる感覚で用いられ、アゲアゲのような感情を指すものだと私は解釈しております。

ニュースなんかでもあるのですが、日経平均がわずか9円持ち直しただけで、反発という表現を使ったりしたことがありました。


読んでいると何か、少し止まってしまう違和感と言いますか、多分、上がって欲しいと言う気持ちから、そういう表現になったものと推測してしまいます。

これは後述の『Ikioi』にも共通するのですが、まずノリでアゲて、その後、勢いに乗じる文化が見え隠れします。

ニュースなんかででも嬉しいニュースやよく見られるニュースを、しつこいぐらい繰り返して、分かりやすく字幕を振ったりするのは、ここがポイントで、この箇所で笑うとか嬉しくなるというのをまるで指示するような演出がよくあります。

寝ぼけていたおじいちゃんでも分かりやすい、非常にリアクションのとりやすい映像的演出が得意だったりします。

Ikioi


何かしらドラマのような演出と言いますか、一番分かりやすいのはイケメン俳優を起用したり、美人女優を起用したりするイメージ戦略だったりします。

吉野家のCMに岩ちゃんが登場したり、幸楽苑のCMにきゃりーぱみゅぱみゅが登場したり、いかにもあたかもイメージのいいCMで勢いを見せる点です。

この点、田舎のえふりこきにも似ているのですが、外食産業が弱っていても、あたかも弱っていないような爽やかさとかイメージのよさで挽回を図ろうとする点です。


肝心の牛丼とかラーメンという食べ物本来の魅力よりも、どちらかと言うと勢いのある人が食べている印象の方が重要で、その勢いのある印象にあやかろうとする意味合いすら含まれていたりします。

これはある意味、お祭りなんかの神頼みに近く、何かシンボルを祭り、それに託する国民性なのだと思います。

どちらかというと本来提供する物はどうでもよく、勢いのある人や物が大切で、それにすべてを託してしまう危険な思想だと解釈してます。

Ba No Kuuki


場の空気はみんなが思っているであろうことを言わずして感じとる文化だったりします。

阿吽の呼吸がこれに当たると思います。


この多くはテレビで、テレビで実際繰り返されているリアクションや考え方、対応の仕方なんかが型にハマって流されていると言いますか、人びとの記憶するところとなるので、おおよそそのように演技をしなければならない空気が醸成されている点だったりします。

なので、不倫にしても、結婚している男性が他の女性を好きになることはあるのですが、それは許されず、やってしまったら謝らなければならない文化があるので、その通りにひとまず場を設けます。


それは本人もそうだし、集まった人びとや会見を眺める人びとも、悪いことを認め、謝罪を行なうという同じ映像を頭の中で共有しています。

その映像自体がある意味空気で、その映像通りにすすむことが空気を読むということだったりします。

なので、その空気を読んだ合致度が高ければ高いほど、会見がうまいという評価を与えられますし、謝罪力なんて言葉も生まれるのですが、要はみんなが望んでいることをその通りにやる力が何よりも求められる国なのだと思いました。


なので、自分がどう思っているとか?男性の人はそう考えるのか?と言った人間としての興味はまったく関係がなく、そこは間違いを認め、謝る場だという空気の方を重くとらえている点です。

なので、オリジナリティーとか彼独自なのではなく、みんな一緒に間違いを認め、謝罪を要求するのです。

これってよく考えればテレビと一緒で、テレビ的な勧善懲悪であり、ハッピーエンドなのです。

テレビのような形式美の国、ジャパン


映画にも共通してますが、人生においても必ずしもハッピーエンドではなかったりするのですが、最後はハッピーでシメたい形式美の問題だったりします。

なので、初めもあらかた決まっていて、終わりもあらかた決まっているので、自由度はまったくない、まさに型にハマった考えができあがる土壌だと思っています。


これらのノリや勢いや場の空気が、新型コロナウィルスにおいても至るところで繰り広げられており、ある意味、その形式を満たせばやってないのにやった風になるし、何も前進してないのに不安が解消する場合もあったりするから誠に不思議な国民性だったりします。

都知事や政府の会見もそうなんですが、あたかも厳かな感じで始まったりするのですが、大して内容もなかったりするのですが、その会見という形式と、会見で述べられる今後の正式な方針のようなノリと勢いが人びとを元気づけるのだと思います。

この会見が今後の空気を醸成し、Murahacibu的空気となって今後の秩序になるのだと思って見ています。

ですが、それはやはりテレビ的なので、高齢者や女性の頭の中のようで、現実には若者はもうテレビを見ていないのでそれ自体よく知らなかったり、理解できなかったりしています。

多分なんですが、年齢的にテレビを見ていた年代なので、30代半ば以降ぐらいに共通するマインドだと思いました。